前回最後に書いた放任主義のレーベル、これはもう完璧主義の「BLUE NOTE」とは全てが正反対だったそうですが、その名はなんと……「Prestige」。おい待て嘘だろ、とジャズ好きの方は言われるかもしれませんが、後藤雅洋氏の話によればそうだったらしい。あの一杯名盤を出しているレーベルが、驚きですね。
BLUENOTEは移民のA・ライオンが設立したのですが、Prestigeはアメリカ人のレコードコレクターのB・ワインストックが設立。やはりここも当時は中小企業で(インディーズといった方が多分早い)、初回刷り枚数は500-1000枚がせいぜいだった。
ここはレコーディングに当たってリハをほとんど、あるいは一切やらせなかったらしい(w)。とにかくテープを回して、ミュージシャンを放り込んで好き勝手にやらせて一丁上がり、という方針。プロデュースも何もないです、時間(金)が惜しかったのだろうな。スタジオだって時間貸し。
それでもあれだけ名盤を出せたのは、一重に時代状況が良かったせい。1950年代中盤のマイルス・デイヴィス・クインテットが典型だけど、今から考えると世界的なプレイヤーが壮年期でノリにノっている時なんです。そんな人達がスタジオで好きにやっていいと言われたら……もうわかりますね。モダンジャズが芸術として花開いていく時代だったし、それを無造作に記録するだけで、世界中のミュージシャンが今でも聖典と崇める名盤が次々と生まれてしまったのです。
ドイツの完璧主義から生まれたのがBLUENOTEなら、正にアメリカの実践主義から生まれたのがPrestigeだったわけ。
後藤氏によると、マイルス・クインテットには面白い逸話があって、当時Prestigeと契約していたんだけど、なんとメジャーレーベルのCOLUMBIAと契約が取れてしまった。それでマイルスはPrestigeとのレコーディング契約を一刻も早く消化しようと、2日で4枚のアルバムを録音してしまった(w)。無論リハなんて一切なかったらしいが、これでも名盤が生まれてしまう、当時の状況なら当然ともいえるでしょう。(曲が流れていましたが、さすがに若き日のコルトレーンも準備不足で冴えないソロでした、初見だったかもしれんw)無茶するわー、この人。
こんな感じだったので、売れるかどうかわからないミュージシャンもスタジオに放り込まれて録音ができた(ある意味幸運)。結果玉石混淆なんだけど、後に有名になっていく人もいて、その代表格がエリック・ドルフィーだったとのこと。
なおここは運営も緩いが金払いも(悪い意味で)緩かったらしく、ギャラ未払いを連発していたらしい(w)。もしかして当時の名盤でギャラを貰ってないプレイヤーがいたかもしれません。
また何かラジオで聞いたら書きますね。(番組名→NHKR2カルチャーラジオ~「今、もう一度ジャズ入門」)