以前から書こうと思っていた宮澤賢治とある文学青年のこと、忘れないうちに。
賢治が生前刊行した唯一の詩集『春と修羅』ですが、全く売れなかったことがよく知られています。自費出版だったのですが、本屋に並べてもらったものの、後にドサッと返本されてきて、賢治は相当ヘコんでいたとか。無名の新人なので仕方ないのですが、それにしても見事なまでに世間は無反応だった。
知人や宮澤家ゆかりの人に献本もしていたのですが、そのお礼状が残っていて、「『春と修養』というご本、有難うございました」なんて書いてあって、どうやら健康本だと思われていたとか(笑)。一度も開いてないのですよねえ、まあ献本なんて大抵そんなもんだ(←お、類似経験あり?)。
ただ、そんな一般読者の(無)反応とは裏腹に、実は「プロ筋」には、意外にもこの『春と修羅』は高い評価を得ていたのですね。
まず当時新進気鋭の詩人だった草野心平がこの詩集を読んで才能に驚き、すぐさま自分の同人誌に参加するよう手紙を送っています。(実際、賢治は同人になった)
そのときの草野の感想が、「この人は見慣れない科学用語を使っているが、それが象嵌細工のようなものでなく、生活の言葉のようになっている」で、もうウヘッって感じですわ、なんで一発で賢治の本質を見抜くのか。今日のように賢治研究が進んだあとの知見を、作品を一読しただけで見抜いてしまう。詩人・草野の洞察力恐るべしといったところです。
さらに、当時の児童文学、そして新作童謡の巨大ムーブメントの震源地、雑誌『赤い鳥』の鈴木三重吉の目にも止まり、実際後に原稿依頼がきます(ただし事情で作品は没になった)。
ここまででも、実はとんでもないことだ、というのは今から考えてもわかりますよね? 草野がダメな詩人を勧誘なんてしませんし、創刊号の巻頭作が芥川龍之介だった『赤い鳥』から原稿依頼がくるんだから、「おれSUGEEEE」ってなっても不思議ではないのに、どうも賢治はそれほどでもなかったらしい。さすがに赤い鳥のことは喜んだが、没になったことで、「ああやはり自分はダメなのだ」と落ち込んでいたとのこと。不思議な話です。あの顔の雰囲気からやはり、ネガティブ思考だったのか?(w)
もしかすると、作家仲間やプロ筋からより、一般読者に読んでもらって評価して欲しい、という気持ちが大きかったのかもしれません。
ここでもう一人、『春と修羅』を手に取り、これまたその内容に衝撃を受け、何冊も購入して友人にまで配ったという、賢治が聞いたら飛び上がって喜んだだろう行動をした、ある文学青年がいました。というか、まだ少年といった歳かなぁ、17歳くらいなので。
賢治も無名、彼も無名でしたが、そんなことはもちろん関係なかった、彼にとって賢治作品の価値は明白でした。いくら詩集に感激したからといって、普通は友人にまで配りませんから、賢治作品に心酔し、大きな影響を受けたといっても過言ではないでしょう。
彼もまた文学を志しており、数年後文壇でめきめきと頭角を現してその名を世間で知られるようになります。その人の名は中原中也。そう、あの「汚れちまった悲しみに」の詩人です。
よりによって、ですよ、無名時代の賢治をこれまた少年時代の中也が発見し、激賞していたのですよ。どれだけアンテナが高いの?そしてどんだけ鋭いの?って話です。キレキレの詩人って本当にコワい。
賢治の訃報を聞いたとき、中也は詩人として身を立てたあとでしたが、とても気の毒に思ったそうです。あれほどの人が世間から評価されず、志半ばで倒れたのですから。それで、あちこちで賢治のことを喋ったり書いたりしたのですね。
これは草野も同じで、むしろ自分のところの同人ですから、やはりこんなに素晴らしい詩人がいた、ということを紹介して回った。
これでようやく世間が賢治を認識し、「じゃあ読んでみるべ」ってなり、それで「あっ、本当に凄い」→超絶大ブレーク、ですよ。
なんせ戦前にすでに2回全集が編まれ、「風の又三郎」なんて映画まで作られました。いやどれだけ人気出とんねん。皮肉な話です、賢治ほど「金もいらなきゃ女もいらぬ、わたしゃも少し人気が欲しい」って人はいなかったんだから(w)。
だから、わかる人にはわかるのだなあ、ってことなのですね。中也と賢治は面識はなく、草野も賢治とは手紙のやりとりだけだった。それで突然の訃報に余計驚いたというわけ。
なぜ賢治作品はあれほど素晴らしかったのに、当時世間には受け入れられなかったのか。実はこれは中也も不思議だったらしく、なんと賢治全集に寄せた文章が残っています。これ、青空文庫やKindleで読めるんだけど、以下引用。
私にはこれら彼の作品が、大正十三年頃、つまり「春と修羅」が出た頃に認められなかつたといふことは、むしろ不思議である。私がこの本を初めて知つたのは大正十四年の暮であつたかその翌年の初めであつたか、とまれ寒い頃であつた。由来この書は私の愛読書となつた。何冊か買つて、友人の所へ持つて行つたのであつた。
彼が認められること余りに遅かつたのは、広告不充分のためであらうか。彼が東京に住んでゐなかつたためであらうか。詩人として以外に、職業、つまり教職にあつたためであらうか。所謂文壇交游がなかつたためであらうか。それともそれ等の事情の取合せに因つてであらうか。多分その何れかであり又、何れかの取合せの故でもあらう。要するに不思議な運命のそれ自体単純にして、それを織成す無限に複雑な因子の離合の間に、今や我々に既に分つたことは、宮沢賢治は死後間もなく認めらるるに至つたといふことである。
~「宮沢賢治全集」(中原中也)より
ということで、中也さえわからないそうなので、今から僕らがいくら考えてもわかりっこない。ただ一箇所だけ、賢治が文壇にいなかったから、というのは、大きな理由かもしれない、横のつながりがないってことだから。もし詩壇のつきあいがあったら、赤い鳥に没を食らっても、宮澤君そんなことでしょげるなよ、なんていう人がいたかもしれない(まあ、賢治はいかにも文壇付き合いしなさそうだけど)。
文士同士で飲んだりとか、そんなこととは程遠い人でしたからね。(Wikipediaによると、中也は太宰と飲んで、議論でやり込めて泣かしていたらしい。太宰は太宰で、中也が亡くなったあと、あんな奴だったが亡くなると惜しい、なんて言ってたとかw すげーコンビだなこれ、しかし事実か?←出典みたら小説になってるぞ、眉唾)
中也ももちろん、30歳という若さで夭折しますが、もし生きていたら草野心平のように、生涯に渡って宮澤賢治の紹介・研究につとめたかもしれません。
とにかく詩人の、世界を透過するような視線、本質を見抜く洞察力、これは凄いなあ、自分も見倣いたいなあ、と思ってしまいますね。