「忘れないうちに」シリーズ第2弾。といっても、元は2~3年前にラジオ深夜便で聞いた話に、記憶があいまいなところを調べ直して書いてます。
あ、宮沢賢治、自分は普通に好きなので。
賢治童話の代表作のひとつである「セロ弾きのゴーシュ」ですが、賢治自身もチェロ(セロ)を弾いていたことは広く知られています。
このチェロですが、若き賢治が父親と仏教観で対立して、家出同然に岩手・花巻から上京した時に持っていったそうですが(すごい大荷物だな)、実はその時は全然弾けなかったそうですね。
東京で印刷所に勤めながら下宿先で山のように作品を書いていたのですが、最愛の妹・トシ重病の報を受け、いよいよ帰郷するという時になって、初めてチェロを習ったのですね。そんなドタバタした時だったので、なんと習った期間はたったの3日!(おい) しかも2時間×3回といいますから、ほぼ調弦やら楽器の持ち方やら、基礎中の基礎しか教えられていなかった。
この習った相手というのが、新交響楽団(後のN響)のチェロ奏者の方。実は同じ楽団の方にオルガンを習っていて、その流れで頼んだらしい。しかしどえらい方々に習っていたのだな、たぶん資産家である宮沢家の繋がりがあったのでしょうか。
(今回、いきなり上京して賢治はどうやって宿を見つけたのだろう、と思い調べたら、結局宮沢家の旧知の方に下宿を世話してもらったと。某宗教団体にいきなり住み込みで働かせろ、などと言って断れてますからね。心配した親からお金が送られてきたり、やはり賢治はドラ息子?w)
このチェロ奏者の方も、3日でチェロ教えろと言われかなり面食らったそうですが、この岩手の青年にどこか見所があると思ったのでしょうか。最大限の厚意で対応し、自分も時間がないためなんと朝6時から2時間、3日連続で賢治を自宅で教えたそうです。
(こうしてみると、賢治は東京時代を暗い時代として記していたけど、周囲の人たちはかなり暖かく見守っていたのだなあ、と。印刷所の作業がつらいのは当たり前だし)
こうして賢治は岩手に帰り教師となるのですが、このチェロはもともと、友人だった藤原氏という方と一緒に買ったのですね。この方も音楽教師になりましたが、賢治のチェロは新品で最高級品でしたが(名古屋の鈴木バイオリン製)、氏のものは中古でなんと穴が開いていました。
教師時代は、給料で当時まだ珍しかったSPレコードを買いまくり、お陰で花巻のレコード店に本社から感謝状が来たとか、英国ポリドール社から直接賢治のもとへも感謝状が来てたとか(笑)、いろいろな話があるようです。
そんな訳で、当時の教え子などの証言によると、賢治のチェロはお世辞にも上手いとはいえない、ゴーゴー鳴っているだけの、まあ雰囲気演奏であったと。
(理想は、たとえば羅須地人協会などで、かっこよく演奏を披露したかったらしい)
さて、ここからが数奇な話になります。
晩年、賢治がいよいよ病となって自宅で静養していると、藤原氏が訪ねてきました。実は近々、盛岡で演奏会があるのだが、そこでチェロを演奏することになったと。それを聞いた賢治は、「おれのを持ってけ」と、穴開きチェロとの交換を申し出た。死期が近いことを知っていたのかもしれません。氏は感謝しつつそれを受け入れ、賢治のチェロを弾いて演奏会は成功したそうです。
賢治はその後亡くなってしまい、形見となったチェロが藤原氏に残された。氏は戦前に編まれた賢治全集の編纂にも、わざわざ東京に行って参加しているそうです。ただ戦後は、花巻も空襲にあっていますので、住むところを無くしてしまい、荒れ地の開墾に尽力し、音楽からは離れていた。そんな厳しい生活の中でも、賢治のチェロを大切に守り通していました。
(ちなみに、宮沢家にあった穴開きチェロはというと、残念ながらこれまた空襲で焼失しています)
そしてとうとう自分も高齢になり、いつ何があるかわからないからと、このチェロの返還を宮沢家に打診、むろん宮沢家はこれを快諾します。
このチェロ、今どこにあると思いますか?
花巻の宮沢賢治記念館にいくと、ガラスケースの中に大切に飾られていて、誰でも見られるようになっています。賢治ファンなら「うおお、これがあの」ってなる迫力。なんせ賢治が実際に弾いていた楽器ですからね。fホール(お髭型の穴のことね)の中にはイニシャル「K.M」の書き込みもみえます。そして隣には寄り添うように、妹トシのバイオリンが……。
なんすかこれ? これまた映画化決定じゃないですか! (T_T)
自分もかなり昔に一度見てきましたが、あのインパクト大の展示の裏に、こんな物語があったとは、とあらためて感激ですわ。(当時は、トシのバイオリンはまだなかったような気がした) 「本物」の持つ迫力はやはりすごいもんがあり、まあファンにとっては国宝級の逸品ですわ(むろん文学史的にも貴重)。
もし賢治がチェロの交換を申し出なかったら、いま僕らはあのチェロを見られなかったのかと。
文学者をエピソードで語るのは間違いだけど(やはり作品が一番なので)、賢治の場合は周囲の人たちの行動が本当に優しく暖かく、これほど大切にされた文学者は他にいないのでは、と思えてくる(そしてますます生前ブレイクしなかったことが謎になる)。
ね? ……というのが、ラジオ深夜便の話でしたが。
今回調べてもうひとつ驚いたこと。
「セロ弾きのゴーシュ」、この童話は東京時代でも教師時代でも羅須地人協会時代でもない、晩年の病床のうちに書かれたものだったのですね(自分は東京時代かと思ってた)。
さて、あの童話をよく思い出して下さい。街はずれの小屋に住むゴーシュの持っているチェロに、なにか特徴はありませんでしたか?
……そう、穴が開いているのです(!)。野ネズミの子供が中に入って「治療」を受けるので、あれは実はfホールではありません。普通に「穴」です。(自分は実は、fホールのことかな、と思っていた。高畑勲のアニメではどういう描写だったかな、うーん)
ということは、これ、藤原氏の穴開きチェロを見て着想されたのではないか? そんな説があり、どうも正解らしい。(物語の後半、「ゴーシュがその孔のあいたセロをもって」とはっきり書いてある)
驚きいったことに、あの名作誕生の裏には、これまたこんな偶然のドラマがあったのですよ。もし賢治がチェロを交換してなかったら、あるいはゴーシュの話はもっと別のものになった、あるいは存在しなかったもしれない。
いやあ、もう。泣かせます。困ったよこれw
そして、賢治逝去のあと、この童話は発表されるのですよ。
残念ながら、この穴あきチェロは、前述のように空襲で焼けています、宮沢家も被害にあったので。賢治の弟の宮沢清六さんが、もう火が付いて煙が回っている蔵の中に命がけで飛び込んで、なんとか救い出したのが生原稿・未発表原稿が一杯入った賢治のトランク。さすがにチェロまでは無理だったようです。
(最近、この賢治記念館のチェロを、世界的な演奏家ヨーヨー・マを招へいして、花巻のコンサートで弾いてもらった、って情報を見つけた。もう現実が完全に物語を超えている…)