NHKの「日本人のおなまえっ」という番組が面白くて、風呂上りに(再)放送やってるとみているが、それでこの前見たレア苗字の回。あ、この番組は日本人の苗字からその家系のルーツを探るというもので、いわゆる名家だけでなく市井の庶民にも歴史があるんだ、と感心させられる。
で、レア苗字で「鬼」が付く名で、あまりに珍しいのでここで書くと特定されちゃうので(笑)少し変えて書きますが、「七鬼川」という苗字。
これはなんだろう、鬼がつくからといって本当に鬼とは関係ないのでは?と思うかもしれませんが、番組では本当に鬼に由来する苗字をいくつか紹介した後だったので、これもやはりそうでした。
修験道の開祖、役小角にゴルァされて子分になった前鬼・後鬼という鬼がいたそうで、その後人間になったとか。で、後鬼というのは元々「女性」だったそうで、二人は夫婦になって、多くの子供を設けた。
それが「七鬼山」「七鬼田」「七鬼川」……みたいにすべて苗字がつけられて、その家の一つがこの「七鬼川」さん(仮名)。
そんな時代から続いている家系なので、当代の当主が出ておられましたが、それがなんと第61代。ひえぇ…。まあ聞いたことないです。20年×61として、約千二百年ですから、まあそんなもんでしょうか。
宿坊(寺社に併設して参拝者や宗教関係者を泊める宿)を営んでおられるそうで、それでも残念ながら自分の代で終わりかもしれない、という。できれば続いて欲しいものですが。
で、ここからが本題なんですが(長いな)、ちょうどこの宿坊に修験者のグループが泊まりにきていて、みなさん昔ながらの白装束の山伏の装束で、現代的な登山の装備と無縁の状態(足元は足袋だったかもしれない)。で、「鬼とは我々の修行仲間みたいなものです」なんておっしゃってる。
番組中の修験道の紹介で映っていたのですが、命綱なしで岩場を伏せて登ったり(だから山伏という名がある)、まあほとんど夢枕獏の伝奇小説の世界、純和製ファンタジーですよこれは。日本は古い歴史がある国だからこういうこともあるんですね。
こういう世界、こういう人生もあるのかと思って、グローバリズムだ、インターネットだ、北朝鮮ミサイルだなんだなんて無関係。仙人が出てきてもおかしくない超俗の秘境の話です。こんな生き方も、絶対に楽しいに違いないと思う。
以前も何かの番組で見たけど、こういう厳しい修行をしている方は、意外と微笑みも爽やかな穏やかそうな外見をしてらっしゃる。映画やTVだといかつい役者がやってたりするが、現実は正反対のようですね。
たぶん「自分に勝つ」ってことが心身とも追い込む極限状態の中で出来ているから、こういう表情、それこそ悟りに到達するんじゃないでしょうか。
こういう方々なら、もし人の心が生むのが「魔」やら「鬼」なのだとしたら、それを祓うことができるように思えてきます。
意外と、日本の宗教の再生って、こういう場所から始まるのかもしれない、なんてことを思いました。修験道は神仏習合(神道と仏教が混然一体)になってるから、実はこれが永らく日本人の宗教のスタンダードだったんで、一番しっくりくるはずです。
(ここから神道が分離されて国家神道となっていくのが明治政府の差し金で、実はそんなの日本の歴史からいったらごく短い期間でしかない)
まあともかく葬式仏教では絶対ダメですね。奴等は事業として宗教を営んでますから、根本が卑しい。
もっとも、修験者の皆さんはガチで命がけの修行をやっているので、亡くなる方も少なくないそうです。現代的装備でも危ない場所へ、昔ながらの修験者の装束で行くんだから当たり前。でも携帯電話くらいは持っているのだろうか?(w) あの恰好でスマホで話していたら面白いんだけどなあ。こんなことを書いていると怒られる。(でもさすがに遭難に備えて電源切った携帯くらいは持ってそうな気も?)
これに比べたら、キリスト教の神父・牧師なんて、ブクブク太ってるわ目は濁っているわで、ただの変質者やで(w)。顔つきも悟りとはほど遠いしな。正に煩悩の塊り。実際つい数年前もローマ法王が神父へ、少年を教会で襲うのは止めろ、って声明出してるしなあ。
(昔の教会は基本女人禁制で、教会音楽のために女声の代用としてボーイソプラノを使った、これが少年合唱団の始まり。これに神父が欲情するw)
西洋音楽はこういう場所で生まれたということを、俺たちはしっかりと認識しておかねばならないだろう、ってこの人最後に無理やり音楽に繋げたよ。